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四旬節第四主日教会説教
ー神の民よ、喜べー

2011年4月3日 関口教会にて

第一朗読 サムエル記(サムエル上16・1b、6−7,10−13a)
第二朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・8−14)
福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ9・1,6−9、13−17、34−38)

 今日は四旬節第四主日です。四旬節は償い、節制、施しの季節です。そして日本列島はいま東日本を襲った大地震のために、苦しみ、悲しみ、不安で覆われています。それでも今日はあえて《喜び》を取り上げたいと思います。
 今日は伝統的に薔薇色の祭服を着けることができる《喜びの主日》です。それはおそらく本日の入祭唱から来た習慣だろうと思います。
 「神の民よ、喜べ。
  神の家を愛するすべての者よ、ともに集え。
  悲しみに沈んでいる者よ、ともに集え。
  神は豊かな慰めであなた方を満たしてくださる。」
 四旬節も半ばを過ぎ、復活祭まであと三週間です。大震災のさなか、四旬節の荒れ野を旅する神の民は慰めと励まし、信仰の喜びを必要としています。この喜びは、キリストの光を受け、暗闇に打ち勝つ者となる喜びであります。
 それでは本日の三つの朗読を短く味わってみましょう。
 第一朗読は「サムエル記」のダビデの選びの話です。ダビデはサムエルによって油注がれてイスラエルの王となります。主の霊が激しくダビデに下りました。わたしたちも聖霊、堅信によって油注がれたものであります。聖霊の導きに信頼して歩みましょう。
 第二朗読は「エフェソの教会への手紙」。「光の子として歩みなさい」と告げられています。光は主キリストの光、復活のキリストの光です。たとえ暗闇の中に置かれてもキリストの光を受けて歩みましょう。
 ヨハネによる福音。生まれつき目の見えない人がイエスに出会って見えるようにしていただいた次第を告げています。
 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 どうしてある人は生まれながらに障がい者なのか?それは本人のせいでも両親のせいでもない。神の業がこの人に現れるためである、とイエスは言います。
 災害についても同じような疑問が起こります。
 ルカ13章に次のような箇所があります。
 シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
 今回の災害にあった人はほかの人よりの罪深かったのでしょうか?決してそんなことはありません。被災者が難を逃れた人々より罪深かったわけではありません。なぜ東北地方の人々がこのような苦難に出会ったのか、わたしたちにはわからない、としか言いようがありません。地震は自然災害ですから起こることは避けようがないのですが、原発事件の方はわたしたち人間の方に責任があると思います。
 今思うことは、この災害はわたしたちの悔い改めと再生の機会になる、しなければならないと、ということです。それが「神の業がこの人に現れるためである」ということになるのではないでしょうか。
生まれつき目の見えない人がイエスに出会い、目が見えるようになったばかりでなく、イエスをメシアと信じるようになります。信仰の目も見えるようになったのです。それに対して、ファリサイ人、ユダヤ人は盲人を罪びとと決めつけ、イエスをメシアとは認めません。彼は、「あなたがたもその方の弟子になりたいのですか」とさえ言われてしまします。彼らはかたくなに信仰の目を閉ざしたままです。
 今日は喜びの日。この喜びは信仰を受けた者の喜びです。主の霊を受け、キリストの光を受けた者の喜びなのです。
 復活の喜びの先触れを祝うこの日、主がわたしたちに光、知恵、勇気を豊に与えてくださいますよう祈りましょう。



 


東京大司教 ペトロ 岡田武夫