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四旬節第五主日説教
ー被造物のうめき、生みの苦しみー

2011年4月10日午後2:00 館山教会にて

第一朗読 エゼキエルの預言(エゼキエル37・12―14)
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8−11)
福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ11・3−7,20−27,33b−45)

  今日は自動車のラジオで東日本大震災のニュースを聞いてきました。明日で大震災がおきて一ヶ月です。人々は大きな不安の中に置かれています。一日も早い復興、そして原発事故の収束のために祈り、また自分にできる、そのための支援をしたいと思います。
 今日のヨハネの福音では二度もイエスは「心に憤りを覚え」と出てきます。
 初代教会では「イエス・キリストとは誰であるのか、何であるのか」が最大の問題でした。さまざまな議論の末に325年、ニケアの公会議において、イエス・キリストは
 「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」
 という結論になりました。そしてさらに、まことの神であるイエスは主であり、
 「主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、乙女マリアより、からだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ・・・」
 と述べて、イエスが本当に人間であり、人間として十字架の苦しみを受けたことも宣言しています。ニケアの公会議は、イエスは本当に人間であったこと、わたしたちと同じ人間性を持っていた完全な人間であったことを宣言しています。今日のヨハネの福音からも、イエスは豊かな感性の持ち主であったことがわかります。ナザレのイエスは本当に人の心を持って人を愛したのでした。
 イエスはラザロとその姉妹マルタとマリアを愛していました。彼らの住まいベタニアはイエスの憩い、安らぎの家庭でありました。イエスは愛するラザロの死のために涙を流されたのでした。
ところで、確かにイエスはラザロをよみがえらせました。しかしラザロはまた死ななければなりませんでした。イエスのメッセージはラザロのよみがえりを超えた復活であります。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる」とイエスは宣言します。
 そもそも地上の生命が長ければいいというものではありません。問題は如何
(いか)に生きるか、如何(いか)に死ぬか、であります。
 「預言者エゼキエルは神の霊による枯れた骨の立ち上がりの幻視を預言しました。これは、イスラエルの民の復興の預言であり、またイエスの復活の前表
(ぜんぴょう)でもあると思われます。
 パウロは今日のローマの教会への手紙で言っています。
 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
 わたしたちも神の霊を受けてわたしたちの体を復活の体と同じ栄光の体、死ぬことのない体に変えていただけると希望することができるのです。
 しかし実はあがなわれ解放されなければならないのは、人間だけではなく、全被造物です。パウロは言っています。
 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマ8・19−23)
 すべての被造物はあがなわれて、神のお望みになる状態へと変えられ、この世界はまったく新しく造りかえられるのだとパウロは教えていると思います。
 このたびの災害は何であるのか、と考えさせられています。
 もしかして、このたびの大震災はパウロが言う《被造物のうめき、生みの苦しみ》なのでしょうか?そんな気もします。
 被災者が被災者でない人より罪深かったからこのようなひどい目にあったのでは決してありません。罪深いといえば全人類がそうでしょう。この大災害はわたしたちの生活の反省を促しています。わたしたちの社会が新しく作り直されなければならないというメッセージを感じます。もちろんわたしたち教会はこの世界を刷新するために奉仕者として決意を新たにしなければならないと思います。



 


東京大司教 ペトロ 岡田武夫