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徳田教会ヴィンセンシオ・パウロ祭堅信式ミサ説教
2011年9月25日10:00 年間第26主日 徳田教会にて
第一朗読 エゼキエル書(エゼキエル18・25-28)
第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・1-11)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ21・28-32)
今日の第二朗読(使徒パウロのフィリピの信徒への手紙)でパウロは言っています。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2・3)
「互いに相手を自分より優れた者と考えなさい」とパウロは言っていますが、正直に言って、これは実行がなかなか難しいようにわたしには思われます。
これはどういう意味でしょうか?
自分以外の人は自分にないすばらしい特徴を持ち、自分にはわからないことを知っており、自分にはできないことができる人です。すべての人は同じ神様から生まれた兄弟であり、それぞれ違う使命を与えられた人です。
主イエスは十字架上の死に至るまで、自分をむなしくして従う僕となられました。主イエスに倣って歩むようわたしたちは求められています。
このように考えれば、「相手を自分より優れた者と考えなさい」を実行するのは難しいことではないと思います。
今日の福音はマタイによる福音の「二人の息子」の話であります。先週の日曜日のぶどう園で働く労働者のたとえの続きです。主は先週の福音の結びで、「このように、後にいる者が先になる、先にいる者が後になる」(マタイ20・16)といわれました。
この「先にいる者」とは当時の社会の指導者である祭司長や長老をさしており、「後の者」とは徴税人や娼婦をさしています。先に来た、祭司長・長老たちはイエスを信じませんでしたが、後から来た徴税人・娼婦たちはイエスを信じました。
今日の福音もぶどう園の話です。兄と弟がぶどう園で働くよう求められました。兄は断りましたが後で考え直してぶどう園に出かけます。弟は「はい」と答えましたが、実行しませんでした。兄は徴税人・娼婦を指し、弟は祭司長・長老を指しています。
なぜこのような違いが生じたのでしょうか?祭司長・長老たちは強い自負心を持っていました。祭司長・長老たちのこの自負心が、彼らがナザレのイエスを信じて受け入れための妨げとなったのです。祭司長・長老たちは神の憐れみを受けるべき罪人であるとの自覚に乏しい人たちでした。他方、徴税人・娼婦は人々の憎しみと蔑みを浴びる存在でした。ただ神の憐れみによってしか救われないと自覚する人々です。
ぶどう園で働くようにとの呼びかけは、イエスを信じイエスについてくるように、との呼びかけです。社会的に排斥されていた徴税人と娼婦は自分自身に頼るものは何も持っていませんでした。また自分の問題もよく自覚していました。そこで彼らはイエスの招き、罪の赦しの福音を素直に信じて回心し、主のぶどう園に入ることができたのだと思います。
今日堅信を受けられる皆さん、あなたがたはこれから主のぶどう園でどんな働きをしたらよいでしょうか?わたしたちがまず謙遜に悔い改め、そして主の憐れみの福音を日本の社会の多くの人に伝えることができますよう、聖霊の恵みを祈り求めましょう。

東京大司教 ペトロ 岡田武夫
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